カトリック箕面教会 クリスマスミサのお知らせ 19時30分~主の降誕、夜半のミサ、ミサ後はパーティです ミサの前に、19時~クリスマスミニコンサート バイオリニストと、オルガニスト、 バッハ グノーのAVe Maria そしてバロックリコーダー 聖歌隊のクリスマスソング (中曽千鶴子 オルガン伴奏です) TOMAS LUIS DE VICTORIA AVE MARIA Hodie Christus natus est Adeste Fideles O Holy Night 他 ♪ 全世界の10億人のカトリック信徒が、クリスマスを祝い祈ります。 日本では、カトリックやプロテスタントの信徒でなくても街中が、クリスマス、ツリーを飾り、 クリスマスケーキやチキンを食べ、プレゼント交換したりパーティしたり、 恋人たちは、記念のデートをしたりしてお祝いしますね。 日本で初めてクリスマスをお祝いしたのは、 山口県だそうです。 山口では、今年、「12月、山口市はクリスマス市になる」という キャンペーンをされています フランシスコ・ザビエルゆかりの山口です。 http://www.xmas-city.jp/ 1552年が 日本のクリスマスのはじまり 日本のクリスマスは462年の歴史があるということですね。 室町時代、守護として山口を中心に治めていた大内氏は、 京都をはじめ朝鮮半島や中国大陸から様々な文化、学問、宗教を取り入れ、 西国一といわれるほどの経済的発展とともに文化あふれる個性的なまちづくりを行いました。 第31代当主大内義隆は、フランシスコ=サビエルの布教の願いを寛容な心で受入れ、 翌1552年旧暦12月9日(西暦12月24日)、山口の地で降誕祭が行われました。 これが日本で初めてクリスマスが祝われた日と記録されています この日は、日本人もみんなクリスチャンみたい 日本各地のカトリック教会の24日のミサは、 特に観光地などにある教会では、信徒でない人も教会に来ます。 日本に滞在している外国人の方も多く来られます。 家族でケーキを食べたり、彼氏、彼女とデートするのも素敵だけど、 この日、ご自宅の近くの神秘的で素敵なカトリックのクリスマスミサを 体験してみてはいかがでしょう ああ、クリスマスってこういう事なんだ・・・ と少し、お祝いの意味がわかるかもしれません それぞれの教会の飾りつけも音楽も、ろうそくの灯りも とても美しくて神秘的です 中東やアフリカなどの国では、今、カトリック信徒への弾圧がひどくてクリスマスをお祝いする事もできない人がいます。 また、中国共産党や北朝鮮のように、信仰を否定する国でも カトリック信徒が弾圧され強制収容所で拷問、虐殺。 日本はどんな人も幸せにクリスマスを祝うことができます。 しかし、拉致被害者さんは、今も苦しんでいて 家族とクリスマスを過ごすこともできません。 全世界の悲しい人、苦しむ人のためにもこの日は祈りたいと思います。 ******************************************* みことばは「人」となった 救い主の到来を待つ待降節に入り、私たちは、主のご降誕を準備します。待降節、降誕節は、みことばが「人」となったことを深く思い、その意味を心の深みで受け取る季節です。私はここ数年この季節に繰り返し読み思いめぐらす詩があります。その詩を皆さんにご紹介します。 「あるクリスマスの出来事」ルイス・カッセルズ 佐久間彪神父訳 老いた一人の農夫がゆり椅子に 身をゆだねて暖炉の火を 見つめていた。 遠く教会の鐘が鳴っている。クリスマス・イブ。 かれは もう長いこと教会に背を向けて生きてきた。 「神が人間になつた、だと?ばかばかしい。だれが そんなことを信じるものか。」 眼を閉じ、薪のはじける音を聞きながらかれは まどろみかけていた。 突然窓ガラスに何かがぶつかる烈しい物音。それも次々に、さらに烈しく。 何事かと、彼は身を起こした。 窓際に立って 見たものは音も無く雪の降りつもる夜よる闇やみの中にこの家をめざして押し寄せて来る おびただしい小鳥の群れだった。 雪闇にわたり途みちを誤ったのだろうか小鳥たちは ともしびを求め? ガラス窓に次々と打ち当ってはむなしく軒下におちてゆく。 かれは しばし呆然とその有様を眺めていたが 外に出るや 雪の降り積もるなかいちもくさんに納屋へと走った。 扉を大きく左右に開け放ち、電灯を明々と灯して 干し草をゆたかに蓄えた暗い納屋へ小鳥たちを呼び入れようとした。 かれは叫んでいた。 「こっちだ、こっちだ、こっちへ来い!」 しかし はばたく小さな命たちはかれの必死な叫び声に応えず なおもガラス窓に突き当たっては死んでいった。 農夫は心のうちに思った。 「ああ、わたしが小鳥になって、かれらの言葉ではなしかけることが出来たなら!」 一瞬 かれは息を飲んだ!かれは瞬時にして悟ったのだ。 「神が人になられた」ということの意味を。かれは思わずその場にひざまずいた。 今や、人となり給うた神の神秘に満ちた愛がひざまずく老いた農夫を静かに被い包んでいた。 かれの上に降りかかり 降り積もる雪はそのしるしとなっていた。 『わかりやすいミサと聖体の本』 白浜満著 女子パウロ会より 主任司祭 矢野 吉久 |