6月6日宝塚 植村隆講演会 主催は田中ひろみ 慰安婦問題は、北朝鮮のスパイが韓米日安保協力体制を破るために、悪用していること 日米韓離反工作にのせられる日本人は愚 以前から指摘していることですが、 慰安婦問題というのは、韓国の挺対協、そして日本では 日本軍「慰安婦」問題・関西ネットワーク 日本軍「慰安婦」問題行動ネットワークは 北朝鮮賛美の北朝鮮工作員による共産主義者の組織 今回、6月6日 植村隆の講演会について かなり、問題視する保守系団体、民族派団体がおられます。 それはもっともですが 主催は ■朝鮮問題を考える宝塚市民の会、 日本軍「慰安婦」被害女性と共に歩む大阪・神戸・阪神連絡会 ヘイト・スピーチに法規制を!宝塚市議会決議を求める実行委員会 となっているが、中心人物が誰だかご存じだろうか 宝塚市の 田中ひろみ (宝塚市:日本軍「慰安婦」被害女性と 共に歩む大阪・神戸・阪神連絡会) 劇団水曜日をたちあげた人物です。 この田中ひろみの関連団体が 北朝鮮系 日本軍「慰安婦」問題・関西ネットワーク 朝鮮総連が関係しています ■北朝鮮系 日本軍「慰安婦」問題・関西ネットワーク ■朝鮮総連が関係しています 宝塚西公民館がこうした集会に使われるのは今にはじまった事ではなく 2010年3月にも 私や友人は、 日本軍「慰安婦」問題の意見書可決2周年の左翼集会に この宝塚西公民館に 抗議しましたが、 2012年にも同様に 日本軍「慰安婦」問題の意見書可決4周年 元社会党 土井たかこチルドレンの中川ともこの講演会も行われるなど 北朝鮮系、社民系がたびたび使用しています 数名の友人がはじめたこの慰安婦問題の水曜デモへは 私も参加し、 宝塚、長田、西宮北口、大阪で2009年~抗議しつづけましたが 西宮北口での抗議の際に抗議する側と、慰安婦支援側に トラブルがあり、その際に暴力をふるっていた慰安婦支援側の 男性は、朝鮮総連の人間でした。 また、2012年に 橋下徹市長が、 「慰安婦」問題と対峙し、 それを受けて来日した、日本軍「慰安婦」被害者の金福童をよんで 証言集会を開催したのが、 この日本軍「慰安婦」問題・関西ネットワーク この会場に友人のTK氏が、入ろうとしたところ 取り囲まれ暴力的な行為をされました。 彼らは、TKさんを在特会とよんでまた印象操作していますが TKさんは、在特会でも団体でもなく、ひとりでいつも正義の思いで 保守系の活動をされている方で、私の尊敬する友人です。 その慰安婦支援側の暴力的行為により、 大阪府警は、関係者の反原発活動や反基地で盛んに活動している 韓基大や、4名を逮捕 日本軍「慰安婦」問題・関西ネットワーク代表者の 方清子らの7ヶ所の家宅捜索を行いました。 橋下徹市長が果敢に慰安婦問題の本質をついたことで、 また、友人、TKさんの勇気ある行動により敵の正体が、明るみに出た のです 大阪府警がなぜ、7か所もの家宅捜索をしたのか もちろん極左であり、北朝鮮、拉致にも関わる朝鮮総連系、 その組織の内情をつかむためでしょう ■日本軍「慰安婦」問題・関西ネットワークの代表の方清子は、 韓国領事館の領事から総領事館に出頭せよとの連絡を受け、 会った席上「朝鮮学校を支援するのは総聯組織を支援することだ」 「国家保安法違反であるため韓国に行くと調査される可能性がある」 などと恫喝し、 また韓国への韓国政府にパスポートの 発給を拒否されましたし 韓国の公安当局が国家保安法違反の容疑で韓国挺身隊問題対策協議会(挺対協)の尹美香代表と梁路子幹事のEメールを押収捜索したこと も明らかになっている http://blog.zaq.ne.jp/otsuru/article/2634/ 要は、慰安婦支援団体は、北朝鮮系、北朝鮮工作員だから 韓国政府が、マークしているのです 韓国政府が後押ししているわけではありません 今回の 6月6日の宝塚集会も 朝鮮学校補助金支給せよと 朝鮮総連を支援する田中ひろみ、 日本軍「慰安婦」問題・関西ネットワークの方清子の関係者が 主催 こういう2009年から2012年の出来事を知らずに 慰安婦問題に取り組んでいる人が多いのですが 政治家も、市民も慰安婦問題といえば 「韓国がーアメリカがーグレンデールがー 橋下がー」などと そればかり集中していますが、 元凶は、北朝鮮の工作員、スパイ、朝鮮総連がらみということを 知らずに 共産主義者らの彼らの 民主主義国である日米間離反工作に まんまとのせられて 慰安婦問題で、韓国、アメリカ叩きばかりするのは 本質がまったく理解できていないといえます。 この、宝塚の田中ひろみら日本軍「慰安婦」問題・関西ネットワークが 今回、植村隆を呼び、 ■日本軍「慰安婦」問題の宝塚市議会意見書可決7周年 ヘイト・スピーチに法規制を求める宝塚市議会決議を! 6・6集会 ですが、このヘイトスピーチ条例を大阪市で提案した 橋下徹市長に抗議しているような団体や保守系の人がいますが 今回の6月6日の 北朝鮮系のこの主催者らは 橋下徹市長を敵視している集団であり、 また、ヘイトスピーチうんぬんと言っているのは、 北朝鮮系、共産主義者、極左の集まりです。 ですから、朝鮮系、日教組、社民党はもちろん関係者です 昨日、民族派の方々が街宣車で、この集会を開催する 宝塚で、事前に抗議演説を行われました。 感謝です。 民族派団体には、北朝鮮系の左翼は何もモノを言えませんからね 6月6日に、抗議に行かれる市民団体なども多いかと 思いますが 韓国が~ アメリカが~ 橋下が~ と言っている人たちは 本質をきちんと理解し、調べ、知った上で、抗議してください 特に在特系の日韓断交デモなどに参加している人、 反韓、嫌韓の感情と、慰安婦支援団体への抗議をいっしょくたに して抗議し、敵を利することは愚の骨頂です 本質を見誤り、また、相手側、北朝鮮系の集団と いいあいになり、挑発され、「朝鮮人は○○~」などの 差別用語を市民団体が繰り広げるようでは相手の思うツボです。 敵に利することのない 本質を見極めた活動が必要です。 敵は、民族派団体がきちんと制してくださるでしょう 韓国政府は、韓米日安保協力体制を破るために、悪用している 慰安婦支援団体に 賛同しているわけでも 主催しているわけでもありません 要は、慰安婦支援団体は、北朝鮮賛美、北朝鮮工作員 共産主義者なのです。 ************************************* Birth of Bluesさんのブログより 「多くの慰安婦が人身売買組織に騙された家庭内DV被害者。謝罪を煽動する従軍慰安婦運動家は北朝鮮工作員」韓国紙ニュースタウンがスクープ http://birthofblues.livedoor.biz/archives/51595710.html ■挺対協が展開する不純な慰安婦遊び、中断させなければ ―慰安婦問題を韓米日安保協力体制を破るために、悪用している 『解放前後史の再認識(※2006年発刊)』第1冊434-476ページにはサンフランシスコ州立大学の ソ・ジョンヒ教授の貴重な論文が掲載されている。以下に要旨を紹介する。 植民統治の最後の10年(1935-45)は朝鮮の産業革命期だった。 農民たちは土地から追放されて、 労働階級が胎動して、人口の流動性が増大し、都市社会が広く拡散されて、女性界では、いわゆる 新女性に対する羨望が拡散されていたそんな時期だった。1917年、李光洙(イ・グァンス)の小説『無情』 が連載された。 この小説は新文明の普及書だった。西欧の新文明が流入して、開化思想が広がり、 新青年と新女性を恋愛の表象とした新小説だった。1935年、沈薫(シム・フン)の常緑樹は息苦しくて、 せせこましい農村を啓蒙するための啓蒙書だった。当時の農村の人々の考えがどれほど固陋で原始 的かを赤裸々に描いた。 慰安婦もこのような開化期時代の産物だったのだ。 190人の慰安婦を調査したところ、88%に当たる168人がまさに脱農村時期の1937-44年の間に慰安 婦になった。 都市を欽慕する一種のゴールドラッシュが盛んだった時代に、家庭を飛び出した娘が、 人身売買団のよい餌食になったのである。181人の慰安婦を調査した結果、そのうちの4分の1以上が すでに家族と離れて家政婦、工場労働者、食堂、妓生の家、接待婦などとして働いていた途中、慰安 婦になっており、66%程度が満州、台湾、中国などに搬送されていった。 慰安婦へ行くことになった場合は、家庭をすでに出ていた女性だけに該当するのではなかったかった。 家庭で親や兄たちから暴力を受けていた若い娘たちが暴力を避けて逃げ、それで人身売買団の罠に 引っかかったりもして、学びの新たな岐路を探して広くなった世界に逃げてくるというのが、即ち人身売 買団の犠牲になって慰安婦の道に入ることもあった。 当時、人身売買団の手先は大部分が朝鮮人 たちであり、軍隊慰安婦を経営する人たちの中には朝鮮人たちもかなりいた。 慰安婦に行く道は二つのルートがあった。 家庭-労働市場と慰安婦業所に行く過程があり、直に家庭 -慰安婦業所に行く過程があった。 このような過程を促進した媒体が人身売買団であり、人身売買団に 捕らえられた環境は、つまり、女性に対する家庭内暴力や虐待、そして学びに対する羨望を無条件に 抑圧する無知蒙昧な朝鮮家庭の女性卑下文化のためだった。 ソ・ジョンヒ教授は、家庭から直に慰安婦という穴に落ちた恨多き慰安婦6人のケースを挺対協資料で 簡単に見つけ出した。 こうしたことにも挺対協は、この事実を知りながらも慰安婦問題を政治問題として 浮上させるために、社会に誤った認識を拡散させた。 挺身隊の主張によれば、全ての慰安婦は家庭にいた慎ましい娘たちだったが、ある日突然、日本巡査 たちが押しかけてきて強制的に捕まえて、日本軍が運営する遊郭に入れたというのである。 ソ・ジョンヒ 教授によると、これは事実ではない。 ソ・ジョンヒ教授が調査した6人の慰安婦の事例はこれを理解する のに明白な資料になる。 以下にソ・ジョンヒ教授の事例を要略して紹介する。(>>2以降に) ソース ニュースタウン(韓国語) http://www.newstown.co.kr/news/articleView.html?idxno=207410 (朝鮮の親が娘たちを慰安婦に追いやった代表的な事例) 1)ムン・ピルギ(※2008年死去。):挺対協が毎週日本大使館の前で主催するデモに常に参加している 女性である。彼女は18歳になった年の1943年後半から2年の間に満州の軍慰安所で働いた。1945年、 解放を迎え、平壌 - 開城 - ソウルを経て故郷に行ったが、すぐに故郷を離れ、晋州 - 木浦 - 光州 -全州を回りながら独身で過ごしていたという。 彼女は1925年、慶南金陽郡で2男9女をもうけた小さな商店(雑貨屋)で生まれた。子供の頃、最も したいことが勉強だった。父は「女子が勉強すれば、キツネ(※「狡猾」の意味)にしかなるものはない」と 怒った。母がこっそり一升の米を売って、普通学校に入れてくれた。一週間も経たずに、父が娘を教室 から連れ出し、本を燃やしてしまった。それでも、怒りが収まらず、娘を死にもの狂いで殴って家から追い 出してしまった。本家に行っていたが、もう勉強をしないという約束をした後、家に帰ってきた。 勉強ができなかったことが恨になった状態で、9歳から家事をして、畑仕事もして、綿畑の草取り、繭紡ぎ もした。雑貨屋で売るサツマイモも蒸した。農作業をするたびに、ご飯を炊いて野に運んだ。そんな1943 年の秋のある日、村に住む日本の手先役をする50代のおじさんが、勉強も出来てお金も稼ぐことができる 場所に送ってくれるというで、ついて行った。18歳だった。その男と日本人巡査が彼女をすぐ車に乗せ釜山 に連れて行った。長い髪を切ってチマチョゴリを脱がせワンピースを着せた。そして、他の4人の女性たちと 一緒にそのまま満州に移送された。この物語を含めて、以下のすべての話は挺対協が編纂した「証言集」 に収録されている。 この女性は、毎週水曜日12時に日本大使館の前に出て、日本が自分を強制的に連行して慰安婦に したと謝罪と被害補償を要求しているのである。この慰安婦の遊びは、スパイの妻であり、挺対協の常任 代表ユン・ミヒャンが運営している。問題は、この元慰安婦女性にではなく、挺対協にある。 2)イ・サンオク:この慰安婦の父は慶尚北道達城郡達城面長だった。作男をもうけ、農業をして富農でも あった。9歳の時に学校に入ったが、兄が「小娘を学校にやって、使い物になるのか」と学校に行けないよう にして、本を焚口に入れて燃やしてしまった。それでも学校に行こうとしたところ、殺すと言って脅迫した。 隣家のお姉さんが学校に通うのがとても羨ましく見えて、その年、母にも知らせず、ソウルに逃げ出した。 叔母が学校に行かせてくれたが、兄が叔母に執拗な圧力を加えた。叔母の家を出てトンビという家に 入った。9人の娘たちがいたが、この女の人たちはみんな自身の父によって売られてきた。 15歳の彼女が 最も幼かった。この9人が行く所について行ってみると、下関だった。彼女らを引率した軍属が10人の生娘 たちを渡した所は、まさに朝鮮人夫婦が運営する軍の遊郭だった。彼らは、娘たちとは何の関係もなく、 金を取り交わした。 この元慰安婦の女性は、日本語を話すために、日本軍の病院で働いて給料も受けた。日本軍医が 彼女を可哀想に思って朝鮮に帰そうと思ったが、その日、爆撃を受けふいになった。この女性も、女性へ の家庭内暴力のために遊郭に追いやられたケースであった。 (つづく) 3)イ・ドゥクナム:この慰安婦は1918年生まれである。彼女は1939年から3年は中国で、そして他の3年は スマトラで慰安婦生活をした。学校に行きたかったが、父は飲んだくれであり、賭博師であり、理由もなく ぶん殴った。 「家にいることが死ぬほど嫌だった」17歳で嫁就に行けと言われたが、彼女はこれを売られることだと考えた。 近くの友人と一緒に俸給を受け取ることができる仕事を見つけるために、列車に乗って仁川紡織工場に 行った。それが慰安婦への道だった。 4)キム・オクシル:この慰安婦は1926年に平壌市内、10里なる村で生まれた。現在はキム・ウンリェとして 知られている。彼女の父親も勉強しようとする娘に過酷な鞭打ちをした。 11歳の時、近隣の友人がハング ルも教えてくれて歌も教えてくれるところがあるといって一緒に行ったが、何日かして父に見つかった。 「小娘の分際が文字を学んでどこに書くんだ、恋愛手紙でもしようというのか! 」叱る父親が怖くて、祖母 の後ろに隠れたが、脚を折ると言いながら殴りつけた。その後、父を見たくないので家を出た。ある日、おば さんから平壌では妓生が最高と言われた。きれいな服を着て、きれいな輿に乗って通うという妓生になりたく て妓生ハウスに行って養女となった。わずか一週間で父に見つかった。 「この小娘は先祖の恥、村の恥 沢山かかせて歩き回って」と殴られ、家に押し戻された。そして靴下工場に飛び出した。そこから3年、タバコ 工場で4年働いて、やがて人身売買団に引っ掛かった。 5)ペ・ジョクガン(※2004年死去):この慰安婦は1922年生まれである。この娘は自殺までも図ろうとしたほど 母親からひどい虐待を受けた。廣木工場で働くことにしてくれるという地元の人の嘘に騙されて家を出たのが、 すぐに中国行きになった。中国のあちこちの慰安所を渡った。 1946年家に帰ってきたが、母は冷淡だった。 母が臨終の時、娘を探したが、彼女は行かなかった。 6)ソン・シンド:この慰安婦は1922年生まれで、母親からひどい虐待を受けた。 16歳の時から食べていく ために多数の職を転々としていく中、良い仕事を探してくれるという近隣の人の誘惑に嵌って、中国に行って から1938年から1945年まで慰安婦生活をした。日本人兵士が結婚しようとして日本に同行したが、彼は 日本に到着するやいなや、彼女を捨てた。 (つづく) (政治目的のために慰安婦悪用する挺対協) この6つの事例はごく一部のものに過ぎないが、当時の朝鮮の社会像をよく映している。 これらを悲劇的な 奈落の底に追い込んだのは、日本巡査ではなく、彼女たちを生んでくれた父と母、兄たちだった。 当時、社会 は開化の風に乗っていた。 若い娘たちは外の世界への憧れや、家庭における暴力の間で脱出を選択しており、 その脱出は、そのまま人身売買団への進入を意味した。 このような事情をめぐって、「当時、朝鮮の娘たちはみんな家庭にあり、日本巡査たちが家庭に攻め寄せてきて 娘たちを強制的に連れて行った。 謝罪を行い、補償をせよ」このように叫んでいるのだ。 もちろんシム・ミジャ の場合のように、日本巡査が教室などから強制的に連れて行ったケースもある。 しかし、シム・ミジャお婆さん の証言や上の社会像を見れば、たいていの慰安婦は、家庭内暴力と無知から脱出して人身売買団に引っか かった娘だったという考えを抱かせる。 上6つのケースはすべて挺対協が作成した文章にある内容だ。 すべての事情をよく知っていながらも、挺対協 は慰安婦を政治的目的で街に広めている。 ムン・ピルギは毎週水曜日に大使館前で「私の青春を補償せよ」 とデモをしているが、挺対協が編纂した「証言録」によると彼女は日本に要求するものはひとつもない。 解放前後史の再認識、第1冊2部は「植民地下の女性の人生」という主題を扱っている。 ここには日本大阪 産業大学のふじながたけし(藤永壮)教授、米シカゴ大学のチェ・キョンヒ教授、サンフランシスコ州立大学の ソ・ジョンヒ教授の書き込みが膨大な分量の論文で掲載されている。 この三者の論文を見れば、韓国の挺対協の主張がどれほど荒唐無稽なものかを一つ一つ知ることができる。 さらに、論文が引用した根拠資料を見ると、日本人たちの調査が大変多い反面、韓国人の調査が非常に 乏しい。 韓国国内の学者は、この分野についての研究をせず、挺対協は客観性が欠如した感情的主張をしてきた。 ゆえに、この分野を研究する多くの国際学者たちに恥晒しな結果をもたらしたということが、これらの資料に 示されている。 (つづく) まず、ふじながたけし(藤永壮)教授の文「上海の日本軍慰安所と朝鮮人」の内容を紹介したい。 (日本軍慰安所の元祖、上海 慰安所) 1.沖縄に居住した朝鮮人元慰安婦の証言を記録したルポルタージュなど十数冊の本が日本で発行され た。慰安婦問題が日本に衝撃を与えたのは1991年8月から慰安婦たちが相次いで自らの存在を明らか にし始め、次いで日本政府を相手に補償を要求した訴訟を展開したことから胎動した。 資料上確認され たところによれば、1932年上海慰安所が一番先に現れたものであり、日中戦争開始後、この地域での 慰安婦の数が最大規模だったため、上海慰安所は他地域のモデルになったはずである。 したがって、上海 慰安所の環境を研究することはその意味が非常に大きい。 上海には個人的な稼ぎのために日本人売春女性(からゆきさん)が海外に出た最も典型的なケースである。 上海駐在日本領事館は1880年代からからゆきさんに対する取り締まりに乗り出した。 これは公娼制度の 導入を意味した。 公娼制度の設置の動機は1)強姦防止、2)軍の士気高揚、3)、性病予防、4)防諜 であった。 当時、上海での朝鮮人女性の実態は、こうであった。上海で朝鮮人女性ダンサーが出現した。 カフェで 働く女給も出現した。 朝鮮人が運営する私娼もあった。彼女らは、新興接客婦で仕方なく売春をした。 こうした女性らは不況のためにますます多く上海に集まってきた。1936年当時、上海には朝鮮人女性ダン サーが37人、彼女らは、風俗を混乱させたという非難も受けた。日本人が経営する飲食店やカフェなどで 働く朝鮮人女給は48人、彼女らはお金を稼ぐために密売淫をして主人と半分ずつ分けた。 この頃、上海 には290人の朝鮮人私娼も存在した。 私娼というのは公娼と認められることができなかった所だった。 満州事変(1931年9月)の時に現れた慰安婦は基本的に売春婦出身であり、その中には朝鮮人女性が 一部含まれていたが、日中戦争の中期である1940年頃には朝鮮の娘を強制的に連れて慰安婦をやらせた 「性的奴隷」なども新たに出現した。 日中戦争が全面化した後、慰安所が大量に開設される時期に慰安所経営者の中に朝鮮人の名前が かなりあった。 日本軍が開設していた慰安婦は1)軍職営慰安所、2)軍が監督・統制する軍専用慰安所、3)民間売春 所を兵士用に指定した所(民間、軍共用)、4)純粋な民間専用の慰安所(軍が通っても、それは個人的な 事)。4番目のタイプの慰安所は、日本軍慰安所とは何らの関係がない。 1932年3.14者上海派遣軍高級 参謀オカベナオサブロウ(岡部直三郎)の日誌には、このような文言がある。 「この頃、兵士たちが女を探してあちこちさまよって淫らな話を聞くことが多い。 これは避け難いことなので、 むしろ積極的に施設を作ることが良いと判断。」 上海派遣軍参謀副長のオカムラヤスジ(岡村寧次)はこう回想した。 「慰安婦問題を考える。 斯く言う私はお恥ずかしいですけど、慰安婦案の創設者だ。 昭和7年(1932)の 上海事変の際に、二、三件の強姦罪が発生したので、派遣軍参謀副長だった私はそこの海軍を倣って 長崎県知事に要請して慰安婦団を招いた。 その後強姦罪が完全に止まったために嬉しかった。」 1932年当時、上海の日本人の風俗営業現況は次のようである。 料理屋3カ所、飲食店72、喫茶店13、 海軍慰安所17、クラブ2、ダンスホール1、芸妓134、舞踏女170、酌婦166。 (上海の日本人の売春の歴史) 「明治元年(1868年)から明治14-15年(1881-1882)のころまで上海駐在日本人の数は10-100人がせい ぜいであり、1年に平均5-6人ずつ増加した。 大体、男3分1、女3分の2だった。 女性の6-7割は外国人を 相手に売春をした。 彼女らが日本の売春の先駆者かもしれない。 モリサキカズエ(森崎和江)の著書『から ゆきさん』では明治15(1882)に上海に800人の売春婦がいたと指摘した。 日本女性達がたちまち増えた 上海では領事館がこれを国家の羞恥とみなして捕らえて500-600人を本国に送還した。 それでも依然と して200人程度は隠れていた。」 (つづく) (結論) 売春の歴史は、どの時代、どの国でもみな暗い歴史として連続されてきた。 我が国でも1961年5.16革命 以前までの売春は違法で統制された。 それで売春は密かに家庭に浸透し、性的暴行や殺人などの悪い形 で広がっていった。 ゆえに、朴正熙の最高会議は公娼制を採択した。 家庭に入り込んでいた性犯罪や性病 等が非常に効果的に改善された。上の論文の一部を見ると、当時、日本も道徳と品位と性的の需要をめぐ って、様々な考えを持ったと推測され、当時の彼らの悩みも、今も私たちが解決しないまま抱えている悩みと 一致したと考えられる。 今の私達の社会を見てみよう。 韓国社会はおそらく世界で上位圏に属する性的風紀紊乱共和国だ。 国家を率いてゆく席はあるが、その席に座っている人たちは、無能と利己心でお互いに噛みつくことで1年 365日を過ごしている。 このようなやり方で幾年を更に費やされたら、我々は北朝鮮に飲み込まれてしまう だろう。もし今、北朝鮮に飲み込まれると、私たちの国の女性、国民は70年余り前に日本人から受けた苦痛 とは比較さえできない悲惨な扱いを受け、命さえ失うことになるだろう。 昔の祖先の愚かさで、強大国に飲み込まれたのは事実だ。 もし日本に飲み込まれずに、中国やロシアに飲み 込まれたのなら、ロシアの慰安婦の境遇や中国の慰安婦の境遇は、日本の慰安婦の境遇よりも良好だった だろうか。 私は絶対ないと思う。 それなら、慰安婦問題で日本を恨むよりも、愚かなまねをして国を奪われた 私達のご先祖さまを恨まなければならないだろう。 しかも、ソ・ジョンヒ教授が指摘したように、ほとんどの慰安婦は無知蒙昧の韓国の父と兄たちの虐待が生んだ 産物だったのだろう。 このような性格の問題を持って針小棒大して歪曲し、慰安婦問題を韓米日安保協力 体制を破るために悪用していることは一日も早く停止されなければならない。 しかも、挺対協指揮部は、北朝 鮮とスパイに深くかかわっている人たちが掌握しているではないか。直ちに、毎週水曜日に日本大使館前で繰り 広げている水曜集会から中断させなければならない。 恥ずかしくてたまらない。 おわり 続編もあわせてお読みください 6月6日 宝塚西公民館 植村隆講演会 続報 真言宗住職佐々木基文と田中ひろみ http://blog.zaq.ne.jp/otsuru/article/3674/ |