【90歳サッカー記者のメッセージ】FIFA会長賞の賀川浩氏 サッカーと特攻隊
実は、関西サッカー界のプリンス? ダニー宮川さんのイベントでお会いした事がありますが、かくしゃくとして90歳近くに見えないダンディな方でした。
日本人として初めて国際サッカー連盟(FIFA)会長賞を受賞した
賀川浩氏
「サッカーの王様」と称される元ブラジル代表のペレ氏らに並ぶ快挙
【90歳サッカー記者のメッセージ】サッカーと特攻隊
特攻隊で聞いた「赤とんぼを黒く塗って行くんだ」
http://www.sankei.com/west/news/150212/wst1502120037-n1.html
現役最年長のサッカーライター、賀川浩氏(90)が先月、日本人として初めて国際サッカー連盟(FIFA)会長賞を受賞した。「サッカーの王様」と称される元ブラジル代表のペレ氏(74)らに並ぶ快挙で、ジャーナリストとしての受賞も初めてだった。神戸出身の賀川氏は、戦時色が濃くなる中で青年期を送り、特別攻撃隊(特攻隊)として終戦を迎えた。戦後70年の節目に、サッカーと戦争と、自身の半生を語ってもらった。(聞き手 北川信行)
一番の思い出は「二・二六事件」
僕はどういうわけか、戦後70年の一年一年に鮮烈な思い出があるんです。戦前の20年もそう。小学生時代の一番の思い出は昭和11年の青年将校らがクーデターを試みた「二・二六事件」です。東京もすごい雪でしたが神戸も大雪。小学校で出征軍人の慰霊祭があったんですが、いつまでたっても始まらず、その日は雪を見ただけで終わったんですよ。
その年の夏がベルリン五輪でした。サッカーが勝ったとか負けたとかはそんなに関心がなかった。大きく報じることもなかった。ラジオの中継放送は「前畑ガンバレ」とかね。
僕自身は、なんでもそんなに一生懸命する方じゃなかった。神戸一中(現兵庫県立神戸高)の3年生になって部活動をやろうと思い、入るんならサッカーしかないと。2つ年上の兄(元日本代表の賀川太郎)がキャプテンをやっていましたから。兄の親友だったマネジャーに「浩は体が小さいから、俺の下でサブマネジャーしろ」と言われ、最初は練習に加わらずに雑用をしていたんです。
5年生のときにセンターFWが足りなくなり、1学年下の部員に試合に出てくれと頼まれました。「恥をかくのは嫌や」と断ったんですが「賀川さんの人生のためだ」と。最初の試合でゴールを決め、選手になってしもうたんです。
「死ぬことになるだろう」
戦争が始まったのは、これから大学受験というときでした。最初の頃、物資はどんどんなくなっていましたが、勝っていたこともあり、国内は平和でした。それでも「僕みたいに身体のいい者は兵隊に行って死ぬことになるだろう。それまでは両親のそばにいる方がいい」と思い、旧制神戸商大(現神戸大)の予科に入ることにしたんです。
18年に学徒動員となり、徴兵適齢期になっていた兄や親しい先輩はみんな軍隊に入りました。陸軍に特別操縦見習士官という制度があって、僕はどうせ徴兵されるならと、19年に試験を受けたんです。そこで約1年半。敗色が濃厚になっていましたが「まだまだいけるもんだ」と手伝いに行きました。
最後は20年春に朝鮮半島の海州で特攻隊の編成に入りました。「どの飛行機で」と聞いたら、「この二枚羽根の赤とんぼを黒く塗って行くんだ」と。そこで、ぶつかるための演習をすることになったんです。
ある意味、あのときが一番充実してたかな。ガソリンはなくてアルコール燃料でしたけど、特攻隊だからどんどん使えるし、自分の飛行機もある。腕が上がるのが自分で分かるわね。練習飛行隊にいたときも上手な教官に教わり「技術教育とはこういうもんか」と。後にサッカーをやったり、記事を書いたりする上で大きな経験になりました。
■かがわ・ひろし 大正13年12月29日生まれ。神戸市出身。神戸一中(現神戸高)から神戸商大(現神戸大)。選手として活躍後、昭和27年に産経新聞社に入社。サンケイスポーツ編集局長などを歴任し、平成2年からフリーランスに。22年、日本サッカー殿堂入り。昨年、神戸市立中央図書館に「神戸賀川サッカー文庫」を開設。長年の取材をもとに「90歳の昔話ではない」(東邦出版)を刊行した。FIFA会長賞の受賞祝賀会が今月下旬、神戸と東京で開かれる。
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