蒼き狼の涙 南モンゴル人民党首席 テムチルトさんのことを知って下さい
ショブチョード・テムチルトさん
23日の神戸の講演会に続き、24日に
来日された、テムチルトさんとルービンさんの歓迎会が大阪で
行われました。
殿岡昭郎先生が、ダイチンさんやルービン君を支え、
南モンゴルのためにご尽力されてきた事への感謝の思いを
それぞれがお話されました。
大阪で中国の問題について学んできた方々が、久しぶりに集まりました。私もこの勉強会で長い間、多くの事を学ばせていただきました。
チベット問題、ウイグル問題は報道される事も多く、
2008年 チベット蜂起や長野聖火リレーの時の問題など以降、
日本の中で、少しづつ知られるようになりました。
しかし、南モンゴルの問題については、マスコミはほとんど
とりあげる事はありません
外モンゴルの事は、相撲で来日して活躍している力士の存在や
観光などで、報道も多いのですが
南モンゴルの悲劇については、まったく取り上げられません。
今もなお、核施設開発、レアアースや石炭などの資源開発、
そして漢民族の移住で、南モンゴルの民族の危機が日に日に
大きくなり、南モンゴルの民族の命である草原の破壊、牧畜の禁止、
伝統文化の破壊、何よりもう南モンゴルの土地には
漢民族が 80%という事態になっています。
南モンゴルの方々は、長く文化大革命などの虐殺、迫害で
自由と人権を奪われつづけてきました。戦うどころか抵抗する
チカラも奪われてきたのです。
そんな中、テムチルトさんは、果敢に戦い続けてこられました。
昨年、
モンゴル人による全国的な抗議行動から3年となる
2014年5月10日が近づくと、南(内)モンゴルの中国当局は
厳戒態勢を敷き、学校・大学に対して学生による抗議行動に
参加しないよう警告しています。
今、南モンゴルに住む人々が、環境破壊に対して
生活の基盤を奪われ、北京に陳情に行くなど、行動しています。
そして
2015年1月22日,南モンゴルドゥルベド旗、ソニド右旗の牧畜民達が、内モンゴル自治区政府の前陳情に行き、警察に弾圧された。特警は40数名の牧畜民を拘束して、バス押し込みドゥルベド旗の方に走り去ったという。
香港、台湾、ベトナム、今、中国の覇権主義に対して
学生や若い世代が、自由と民主を求めて 大規模な抗議活動が
おきています。
中国は、警戒と弾圧を強めていますが、
facebook ツィッターなどのネットのチカラと連動してこの動きは
これからも続くはずです。
なのに、日本はおかしい。 平和ボケなのか教育の失敗なのか
今、若者に盛り上がっているのは、共産主義的なリベラルな運動
反安倍、反政府、反集団自衛権、反原発、人権・差別を声に出しながら
実は、日本の若者たちは、中国の覇権主義、非人道的行為、
北朝鮮の拉致問題には声をあげない。
民主化と自由と真の人権を求めるアジア諸国の中で
先に民主化、自由、人権を手にして、平和と贅沢と我儘とを謳歌して
おかしくなっているのではないか。
南モンゴルの若者、ルービンさんも、他の方々も
みな、弾圧と迫害にそれぞれ苦しみ、命がけで
難民申請もおりない中で、生活もたいへんな中で 頑張っているのです
私のブログも中国の工作員がチェックしているのでしょう。
中国からのスパム、怪しい添付書類つきのメールが毎日、大量に
送られてきます。
しかし、どんな妨害があっても、人生、命をかけて戦う
テルチムトさんのこと、 この南モンゴルの事
多くの日本人に知ってほしい。 その思いです。
テムチルトさんが、大阪の会で流された涙、蒼き狼の涙
私は胸が痛かった。
日本は、かつて南モンゴル民族とともに 手をとりあい
戦ったんだと言われて流された涙
戦後70年、歴史の転換点にきている今
アメリカの庇護のもと、
共産主義の自由まで認められ
そして経済発展で先進国になりすぎた日本が経済至上主義になり
人の道、徳・義・道徳・情よりも 損得、利権、利益に目がくらんで
真の大切なものを忘れかけているのではないか
もちろん国益は大切ですが、
我々は、安穏と平和に甘んじて自分のことだけを考えているのではなく
先人が戦争の大義として、大東亜共栄圏の確立のために
なぜ、命をかけたのかを考えなおす時だと思います。
今の我々が英霊に感謝し、英霊の思いを引き継ぐならば
命をかけて、大東亜の繁栄、
欧米 列強の侵略にあえぎ苦しんでいたアジアを開放するための
戦い、そして反共、共産主義との戦いでもあったことを考えなおすべきではないかと思います。
今は、イスラム国の問題で、アジアの中での原理主義的な過激な
部分が、クローズアップされていますが、
アジアの人々が、戦後70年たっても今もなお
苦しみの中にいるのを助けるのが、日本の武士道精神です。
そのことを考えさせて下さった、テムチルトさん、ルービンさん、
殿岡先生他皆様、そして南モンゴルの若い方々に
心から感謝します
テムチルトさんは、1970年代、学生の時からもう、40年以上、
人生のほとんどを南モンゴルの自由と人権のために戦い続けて
こられました。
チベットの代表、ダライラマ法王
ウイグルの代表、ラビア・カーディルさんは、日本でも知られる
ようになってきましたが、
この南モンゴル人民党主席である テムチルトさんのことを
日本人はもっともっと、知るべきですし、
支援すべきです。
南モンゴルの悲劇については、
静岡大学の 楊 海英 先生のご著書をぜひ
お読みください
墓標なき草原(上)(下) 内モンゴルにおける文化大革命・虐殺の記録
岩波書店.
狂暴国家中国の正体 (扶桑社新書)/楊 海英/狂暴国家中国の正体
ショブチョード・テムチルト
Wikipedia より
内モンゴル自治区ジェリム盟ナイマン旗に生まれる。
1970年代半ばに、中国政府に対して内モンゴル人民革命党粛清事件の責任者である滕海清らの処罰を求める活動に参加する。フフホト市第2高等学校を卒業後、1978年、内モンゴル師範大学史学部に入学[1]する。
在学中の1981年、「中共中央28号文件」の存在が明らかになり、当時の中国政府が内モンゴル自治区に数百万人単位の漢族を移住させることを企図していたことが明らかになると、この計画を撤回させるために南モンゴル学生運動のリーダーとして活躍する。
1981年の学生運動以降、中国政府の厳しい監視下に置かれ、1982年に大学を卒業するが、当局による度重なる嫌がらせのために職を転々とする。1987年に内モンゴル維護人権同盟を設立。1990年、フフホト市でモンゴル書籍の専門書店を開いた
1991年以降、中国政府による内モンゴル自治区のモンゴル族に対する締め付けが厳しさを増し、モンゴル族の人権や文化を保護する活動をしていたテムチルトは、彼の盟友であるフチントゥグスら大勢のモンゴル族と共に逮捕される。その後、ほどなく仲間を連れてモンゴル人民共和国に亡命[1]。1993年に政治難民としてドイツに移住する。
海外での活動
1993年4月6日、テムチルトは内モンゴル維護人権同盟代表としてドイツの国会議員と会見し、国際社会の支援を求めた。この時に、同団体の構成員は約20名で、一部は海外に亡命し、一部は中国国内で服役していると語っている。
同年6月13日、トルコのイスタンブールにおいて開かれた「東トルキスタン青年報」創刊の祝賀会に「内モンゴル人民解放戦線欧州総代表」名義で祝電を送っている。
同年9月13日、モンゴル国のウランバートルで開催された世界モンゴル人大会に参加し、「我々は中国の内モンゴル人民弾圧に抗議する」と題する宣伝ビラを配布した。
同年11月22日、ドイツのミュンヘンで開催されたチベット、東トルキスタン、南モンゴルによる三方人民連合委員会の第四回大会に「内モンゴル人民解放戦線主席」名義で参加し、三方同盟機構の幹部として推挙された。
1994年7月、南モンゴルの民族主義者ウランショヴォーの裁判で刑が確定すると、テムチルトは冤罪を主張し、国際人権組織と連携して内モンゴル自治区政府に圧力をかけた。
同年10月16日、アメリカ合衆国ニューヨーク州にあるコロンビア大学で開催された「東トルキスタン、南モンゴルおよびチベットの人権問題についての国際会議」に参加した。
1995年7月、中国の江沢民主席の訪独に合わせてボンで記者会見を開き、中国の人権問題について訴えた。同年9月、北京で開催される世界女性会議に先立って、その内容の不実を批判し、米国やドイツに亡命している中国の民主運動家およびチベット亡命政府の後押しを受け、彼らの代表として自ら参加しようとした。
1996年1月、米国にて「世界モンゴル人連合会」を開催。1998年の第二回大会を準備するための会議上、南モンゴルにおける民主運動を議題に掲げ、在米モンゴル族を組織して南モンゴルを支援するための基金を設立し、南モンゴル独立旗を選定した。
同年2月、米国インディアナ州にて、南モンゴルの独立を支持するモンゴル人およびアメリカ人からなる「21世紀南モンゴル独立事業唱道団」(別名、33人集団)を設立し、その中央委員会委員に選出され、定款および綱領を制定した。
内モンゴル人民党主席として
1997年3月20日、米国ニュージャージー州プリンストンにおいて秘密会議が開かれ、米国、ドイツ、モンゴルおよび中国の内モンゴル自治区から、バハ、アルタンバト、オヨンビリグら50数名が集まる。この会議において内モンゴル人民党が正式に発足し、テムチルトが主席に選出された。
また、米国、英国、ドイツ、モンゴル国、ブリヤート共和国への支部の設置が決まり、会議後に内モンゴル人民党章程と「内モンゴル人民同胞に告ぐ書」が発表された。
1998年2月、ドイツ、英国、フランス、デンマークなどの代表が参加してライン川の河畔で開かれた国際会議に参加し、自ら情報収集して編纂した「内モンゴルの人権報告書」をジュネーヴの国際連合人権理事会に提出した。
2006年に来日。2月26日に党大会が開催され、非暴力的方法による南モンゴルの独立を目指すこと、適当な時機に南モンゴル臨時政府を樹立すること、内モンゴル人民党の本部をアメリカから日本に移転することを内容とする東京宣言が採択された。
2008年5月16日から開催されたUNPO第9回大会には、内モンゴル代表として出席した。
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蒼き狼の涙 南モンゴル人民党首席 テムチルトさんのことを知って下さい
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