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世界記憶遺産申請にねつ造資料が八百津町、岐阜県、文科省経由でユネスコ提出 ??

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世界記憶遺産申請にねつ造資料が八百津町、岐阜県、文科省経由でユネスコ提出 ??

2016年12月16日(金)

杉原千畝氏をご存じでしょうか。
東洋のシンドラーといわれ、第二次世界大戦中、ナチス・ドイツの迫害によりポーランド等欧州各地から逃れてきた難民たちの窮状に1940年7月から8月にかけて大量のビザ(通過査証)を発給し多くのユダヤ人避難民を救った方です。

2015年 唐沢寿明主演で映画化され公開されました。
現在、ビデオDVDレンタル店でレンタルできますので、ぜひご覧いただきたいと思います。

先日、慰安婦に関する文書について、カナダのトロントにある「カナダ・イスラエル友好協会」が「申請者はホロコースト(ユダヤ人大虐殺)の意味をねじ曲げている」と批判する意見書をユネスコに送付したというニュースがありました。

イスラエルが、慰安婦問題での世界遺産登録に対して批判した事は
もちろんホロコーストの言葉を持ち出した遺産登録申請に対する
怒りであると思いますが、日本が貶められている事に対して
結果的に日本をかばって下さっている事、ここには、イスラエルの
親日的な感情があると思いますし、その中には過去に杉原千畝氏が
第二次世界大戦中にユダヤ人を救った偉大な日本人がいたことが
大きな影響を与えているのではないかと思います。


 
慰安婦資料は「ホロコーストをねじ曲げ」 記憶遺産申請で カナダ・ユダヤ人友好協会がユネスコに意見書

http://www.sankei.com/politics/news/161124/plt1611240010-n2.html
「中国によるチベット侵略の方がホロコーストの概念により近い」とし「もっとひどいのは文化大革命だ」と強調し慰安婦問題が東京裁判でも問題にならなかったことや、米当局の調査でも慰安所で働いていた女性のほとんどに給与が支払われていたなどとして「性奴隷説」が証明できていないと指摘した。

 1991年まで慰安婦の存在が世界に知られなかったのを、アジアで「女性の性」がタブー視されていると説明した登録申請書は「説得力がない」と一蹴。慰安婦問題は経済力を持つようになった中韓が反日感情をあおるための「道具の一つだった」と解説した





そして、今、その杉原千畝氏に関する資料が、世界記憶遺産(世界の記憶)に登録申請されているのです。杉原千畝氏の偉業が登録されることは
喜ばしいことでしょう。しかし、そこにたいへんな問題が出てきています。わざわざ捏造された資料が申請されているのです。

捏造されたものが登録されることになったとしたら
いったい誰が得をするのか、真実が知れたら世界各国の笑いものに
なるでしょう。それこそ、慰安婦問題や南京問題で捏造している
中国や従北韓国団体をバカにできないのではないでしょうか。

世界遺産登録されれば、それを持って、観光客を呼び込める
その関連の地域にとっては、町おこし、また記念館などの箱モノ施設
建設のための利権も絡むのかもしれません。
だからといって、生誕地ではない町が、うちが生誕地だと主張して
記念館を建てて、観光客を呼ぶために

そんなために世界遺産登録はあるのでしょうか。

捏造してで、世界遺産登録をすることで果たして、
杉原千畝氏の名を高めることになるのでしょうか。
ユダヤ人を救った世界的に崇敬されている杉原千畝さんの名を
利用する人がもしいるのだとしたら、そんな悲ししいことはありません

日本人がそんなことをするとは考えたくもありません。

私には知識もなく真偽を判定することもできないですが
下記の文章は、ある杉原千畝氏ゆかりの方から頂いたもので、

私は、この世界遺産登録について、おかしいと直感的に感じます。


この次のページにはニュースで取り上げられた動画もUPします。

:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::



世界記憶遺産(世界の記憶)に、ねつ造された資料が八百津町、岐阜県、文科省経由でユネスコ本部に提出されています。
それを是正してもらうために、今働いています。
ねつ造された物がユネスコに登録されたら(ねつ造したものと明らかになったら)、大喜びする人たちが出るでしょうね。


岐阜県加茂郡八百津町

金子政則町長 殿



杉原千畝改ざん手記のユネスコ申請を憂慮する会





反論文について



 現在、貴町のホームページに掲載されている下記のことについて、当会では関係者への取材や事実関係を調査した結果、重大な事実誤認が見受けられ到底承服できません。よって朱書により反論いたします。







1.生誕地について

(1)千畝は杉原リスト「世界記憶遺産」申請記録物の手記(以下長文手記)6頁で、自分は「1900年(明治33年) 1月1日岐阜県加茂郡八百津町の名古屋税務監督局の官吏の家に生まれた」と記述している。


⇒この2点の手記自体 、筆跡鑑定(2016年8月8日にCBCで放送された鑑定結果を指す)により、偽物の疑いが非常に高い可能性があると報じられています。



また、ここに書いてあります、「・・・官吏の家に生まれた」という表現は、生まれた場所ではなく、家柄を表す表現にも取れ、とても曖昧な文章です。正しくは、「1900年(明治33年) 1月1日岐阜県加茂郡八百津町出身の名古屋税務監督局に勤めている官吏の息子として生まれた」と書くのが本来の書き方ではないでしょうか。無理やり「官吏の家」という表現にするから分らなくなるのです。それでは、なぜこのような表現になったのか。それは実際に出生地が書かれている手記の文章を誰かが改ざんして用いたからだと思われます。



それは、未完の手記と呼ばれている中に「1900年(明治33年)1月1日に岐阜県武儀郡上有知町の一仏教寺内の仮間であった税務官吏の家に生まれた」とある元の文章の消された部分に「加茂郡八百津町の」と「名古屋税務監督局」を追記して、「1900年(明治33年) 1月1日岐阜県加茂郡八百津町の名古屋税務監督局の官吏の家に生まれた」とした結果、文章が分りにくくなったと思われます。また、世界記憶遺産に登録されれば、手記2点が公開されます。その時、手記が国内外で広く研究され、それによって筆跡の違いについて再度疑義が生じれば、今度は国際的な議論になりかねません。




(2)学習研究社刊「6年の学習1985年7月号」所収岡本文良著「愛の決断」に、千畝と幸子夫人との生前のインタビュー記事が掲載されており、その中で千畝は「岐阜県の八百津という所で生まれたが、父が税務署に勤めていて転勤したため、6年生のときは名古屋市の小学校にいた。」と記述されている。

⇒この「愛の決断」の中には、下記などの誤りが多く見受けられます。本人である杉原千畝氏が、インタビューを受けたのであればありえません。また、学研では、掲載する前にインタビュー内容を相手に確認してもらっているそうです。そうであれば、なおさらこのような誤りは到底考えられません。



①写真:(誤)イスラエルの外務大臣と語り合う杉原千畝

     
(正)この写真の外務大臣と言われている人物は、1969(昭和44)年に杉

原千畝氏がイスラエルの大学に留学している四男の伸生氏を訪ねたときの観光ガイド兼運転手です。 


②文章:(誤)2年後、フィンランドの首都ヘルシンキにある日本大使館の一等

通訳官となる


(正)日本公使館であり、二等通訳官です。

③文章:(誤)ドイツのケーニヒスベルクの日本領事館

     
(正)日本総領事館です。

④文章:(誤)やがて千畝は、ルーマニアの首都ブカレストにある日本大使館に

移った。


     (正)日本公使館です。

⑤文章:(誤)千畝は、外務省に勤め始めた。するとしばらくして、上役に言わ

れた。「杉原くん、きみには外務省をやめてもらいたい」


(正)日本への引揚げ後、藤沢市鵠沼に落ち着いた千畝氏は、外務省からの呼び出しで退職を告げられる。まだ外務省に復職する前です。因みに、1947(昭和22)年6月13日付けで岡崎次官名の退職通告書を受け取っています。

⑥文章:(誤)ニシュリが千畝をたずねた

     (正)この時、同行した四男杉原伸生氏の証言によると、千畝氏が当時のイスラエル大使館へニシュリを訪ねたそうです。

⑦文章:(誤)昭和47年、イスラエル政府は「イスラエルの建国につくしてくれた人」として千畝を表彰した。

     (正)同行した杉原伸生氏の証言によれば、表彰はされていません。

⑧文章:(誤)ダイヤモンドをちりばめた銀製の重い勲章をもらった

     (正)杉原伸生氏の証言によると、「本人に取材したならば、父千畝

はイスラエルで勲章を貰ったなどと嘘は言いません。1969年イスラエルに父が僕を訪ねて来た際に会ったのは、バルハフテイッグ(彼の事務所で)とクレメンテイノフスキ(ヒルトンホテルの地下レストランで食事した)の二人だけで何の賞状も勲章も貰っていません。このダイヤが一つ入ったメダルは、僕が勤めていた会社が入っているダイヤモンドビル建設10周年記念のもので、100ドルで記念に買って父母に土産としてあげたものです。勲章なんかではありません」。



さらに、当時の千畝氏がインタビューを受けられる状態ではなかったことを伸生氏が次のように証言しています。

父千畝は1980年6月5日の手紙で「しかし年だから毎日戸外の散歩も300メーター位で常に救急くすりをポケットに持って歩いている、一日の内で1-2回心ぞうが苦しくなった不快(カイ)感を持つ」と書いています。1983年頃には2階のベッドで寝たきりでした。1985年は髪の毛もぼうぼう、ヒゲも剃れない、爪も伸びっぱなしでしたので、この写真は全くその当時のものではありません。



(3)1997年5月4日加茂東ロータリークラブ認証伝達式における幸子夫人「命のビザ」記念講演において、幸子夫人は「主人は八百津で生まれた。生存中に何度も八百津へ訪れた」と話している。

⇒1992年8月12日に「人道の丘公園」が開園し、その後も着々と八百津町で杉原千畝関連の事業が進められていく中、1997年の記念講演では、今さら夫の出生地が八百津町ではないと言えなかったのではないでしょうか。また、杉原幸子著「六千人の命のビザ(新刊)」では、どこにも八百津町で生まれたということが書かれてありません。



しかし、巻末の杉原千畝年譜では、「岐阜県加茂郡八百津町3781」の本籍地を出生地としています。この出典者は、明らかに杉原千畝の戸籍を閲覧しており、その際「明治33年1月1日武儀郡上有知町890番戸で出生父杉原好水届出同月7日受附入籍」と書かれた箇所を確認しているはずです。なのに、なぜ出生地を八百津町としたのか、全く解せません。






(4)千畝の父好水氏は当時岐阜県武儀郡上有知町(現在の美濃市)の税務職員として勤務しており、千畝が生まれるときに、既に2歳4カ月の長男がおり、仕事を持つ好水氏が幼子の長男と出産前後の妻を勤務地に置いて、 1人で世話することは極めて困難であった。このため、千畝の母やつは八百津町北山の里に戻り千畝を出産した。千畝本人が生前、幸子夫人を始め、長男弘樹氏の家族全員とともに北山のやつの実家を訪れ、八百津町で出生したことを確認し、その生家のことを孫たちにもたびたび話している。(杉原美智氏、千弘氏、まどか氏証言)

⇒杉原千畝氏自身が、自分の言葉で出生地を間違えて語るとは考えにくい。晩年、弟に書いた手紙でも「母の里」と書いています。後年、千畝氏以外の人たちが、八百津町での出生にしなければならなかった特殊な事情が背景にあったのではないでしょうか。杉原千畝氏の自筆手記の中の出生地を誰かが「八百津町」と書き直した事実からもそう思われます。



 また、千畝氏が妻や弘樹氏の家族と北山の家族を訪問したとされていますが、ご親族のお話では、「そんな旅行をした話は聞いたことがない」とされています。また、もしその旅行が可能ならば、「1971(昭和46)年以前となるのではないでしょうか」ともお話をされています。もし、証言されている皆さんで北山へ旅行されたのであれば、「いつ」なのかお示しください。




(5)千畝は戸籍上「明治33年1月1日岐阜県武儀郡上有知町890番戸で出生父杉原好水届同月7日受付入籍」と記載されているが、千畝の出生の連絡を受け、好水は勤務している上有知へ出生届を提出し、その後、実際の本籍地の八百津へ入籍した。当時、戸籍上の出生地や出生日を実際の出生場所や出生日ではない別の場所や日付で戸籍に登記することは可能であり、通常行われていた。(杉原美智氏、千弘氏、まどか氏証言)

⇒戸籍には、「明治33年1月1日岐阜県武儀郡上有知町890番戸で出生父杉原好水届同月7日受付入籍」と書かれています。好水氏は、千畝氏を取り上げた産婆、または医師から「出生証明書」を発行してもらい、それを添付して出生届けを役場へ提出したと思われます。この戸籍自体が、証明材料としては最も有効なものではないでしょうか。



それなのに、「戸籍上の出生地や出生日を実際の出生場所や出生日ではない別の場所や日付で戸籍に登記することは可能であり、通常行われていた」と杉原美智、まどか、千弘氏が証言されたとしていますが、3人は本当におっしゃっているのでしょうか。それであれば、国家公務員であった杉原好水さんは、虚偽の申告をして文書偽造をし、それを行使したことになります。好水さんが、息子が生まれたのに何の理由で、何の目的でそんなことをする必要があるのでしょうか。そんなことは考え難いことです。この問題の証明責任は、世界記憶遺産へ申請をした八百津町です。八百津町は、CBCでの報道で研究者が指摘したことに対して、どのような根拠を持って戸籍の信頼性がないと言われるのでしょうか。考えをお示しください。




2.手記の書きかえについて

(1)千畝の出生地が訂正されているとの報道があったが、当該手記は原稿段階のものであり、随所に千畝本人による訂正が行われている。本町が、「世界記憶遺産」の申請記録物として提出した文書は、訂正後の完成した手記である。文書は、上記1の①のとおり訂正後の完成した手記である。(杉原美智氏、千弘氏、まどか氏証言)

⇒1.(1)の筆跡鑑定の通りです。世界記憶遺産に申請された2点の手記は、杉原千畝氏以外の筆跡で偽造された疑いが非常に高いと思われます。この手記は、訂正後、杉原千畝氏が完成させたものであると杉原美智氏、千弘氏、まどか氏が証言しているのであれば、3人に対してこの手記を千畝氏が書いた証拠を公に示すよう町が言うべきです。なぜなら、千畝氏直筆だという根拠を3人の証言に依拠しているのは町だからです。手記偽造の疑いもあり、この点についても記憶遺産への申請者である町の責任として確認すべきです。



(2)尚、今般のユネスコ「世界記憶遺産」への申請にあたり、八百津町はNPO「杉原千畝命のビザ」の協力を得ております。今般の杉原千畝の生誕地の確認についても、NPO「杉原千畝命のビザ」のご協力を頂いたことを付言申しあげます。

  ⇒八百津町が申請した今回の問題で、反証文の後に(杉原美智氏、千弘氏、まどか氏証言)などと書き、さらに「今般の杉原千畝の生誕地の確認についても、NPO杉原千畝命のビザのご協力を頂いたことを付言申しあげます」とわざわざ記載しているのは、もしもこれらの問題で「生誕地」と「手記」が間違っていたときに「町は知りません、全てNPOであり、杉原美智、まどか、千弘氏の責任です」と言っているようにしか思えてなりません。



何度も申します。今回の世界記憶遺産のために提供された資料については、その真偽を確かめるのは申請者である八百津町です。八百津町には、その責任があります。

最後に、私たち「憂慮する会」は、八百津町がこれまで杉原千畝氏を評価し、また顕彰活動を続けられたことに敬意を表します。私たちの活動は、決して世界記憶遺産への登録を妨害するものではありません。しかし、真正であるべき資料に疑義が生じていることを看過することは出来ません。手記2点の取り下げを提案します。



また、生誕地については、「千畝のふるさと」、「千畝のゆかりの地」等々で良いではないでしょうか。生誕地ではなくても貴町と杉原千畝氏との関係は、決して色あせるものではないと思います。八百津町の子どもたちを始め、多くの皆さんに杉原千畝氏の正しい歴史、真実を伝えていきたいと思います。八百津町の良識ある判断をお待ちします。

以上





岐阜新聞にこんなニュースもありました。出生地は八百津町ではなく
美濃市と書いてあります。
 
千畝氏の出生たどる 戸籍記載の美濃市の寺 四男が訪問

2016年07月12日
http://www.gifu-np.co.jp/news/kennai/20160712/201607120921_27638.shtml
杉原千畝氏が出生したと記載がある住所地にあった当時の寺を写した写真に見入る杉原氏の四男・伸生さん(右から2人目)=11日午後、美濃市東市場町、教泉寺
 第2次大戦中に多くのユダヤ人らを救った岐阜県加茂郡八百津町出身の外交官杉原千畝(ちうね)氏の四男杉原伸生さん(67)が11日、千畝氏の戸籍に出生場所と記載される地にある美濃市東市場町の教泉寺を訪れた。

 伸生さんが千畝氏の本籍地がある加茂郡八百津町から取り寄せた戸籍には、千畝氏の出生地は「武儀郡上有知(こうづち)町890番戸」と記録される。市などの調査によると、同番戸は教泉寺にあたる。千畝氏の父好水さんが勤めていた税務署が寺のそばにあったという。

 同寺の住職は、杉原氏が寺で生まれたどうかは分からないとしつつ「昔の庫裏では、間借りした人が共同生活を送っていたと聞く」と話す。

 伸生さんは家族と一緒に今月初旬に来日。同寺では昔の庫裏を写したアルバム写真を見たり、同寺から今の千畝町を眺めたりして千畝氏の姿を思った。

 杉原リストを「世界の記憶」(世界記憶遺産)に申請している八百津町によると、戸籍上の出生地は旧上有知町(美濃市)だが、同遺産の申請資料の一つとして提出した千畝氏の直筆手記に「八百津町の家に生まれた」と記載があることなどから、同町が出生地であるとしている。

 伸生さんは同日、千畝氏が小学1年ごろに在籍していた中津川市昭和町の南小学校も訪問した。

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