2016年1月24日 17時~ 川西市 秋田美輪さんを救う川西市民の会 拉致啓発&北朝鮮核実験抗議街宣たいへん申し訳ありませんが、 今月は第四土曜日の23日は 都合で開催できませんので、申し訳ありませんが 1月24日 日曜日 今回も 17時~19時くらいまで、遅めの時間帯ですが 啓発活動します。 1/24 (日曜日) 17時~「秋田美輪さんを救う川西市民の会」 拉致問題啓発街頭演説、署名 秋田美輪さんを救う川西市民の会 & 秋田美輪さんを救う会 日本海 合同街宣 日本海、鳥取・香住でご活動されている中川健二さんと 川西&日本海、合同で拉致啓発です。 。 「秋田美輪さんを救う川西市民の会」 拉致啓発街頭演説、署名活動 場所:川西能勢口駅北側、ドコモショップ前 雨天の場合は、川西能勢口駅からアステ川西への二階の連絡通路で 行います。 内容:拉致啓発街頭宣伝、署名活動 1月24日 日曜日 時間: 17時~19時 秋田 美輪 失踪年月日 昭和60(1985)年12月4日 ふりがな あきた みわ 生年月日 昭和39(1964)年1月25日 性別 女 当時の年齢 21 身長 155センチ 体重 43キロ 当時の身分 神戸松陰女子大学文学部国文科4回生 特徴 両眼とも眼鏡をかけて1.2 失踪場所 兵庫県神戸市神戸松陰女子大学校門(阪急神戸線六甲) 失踪状況 大学で午前の授業を受けた後、1時過ぎに学食で 友人と食事をとり校門近くで友人と別れた。夜8時過ぎに 「友人宅へ泊まる」との電話が家にある(実際には泊まっていない)。 翌日朝8時15分兵庫県警城之崎署から竹野町弁天浜で 本人のバッグ発見との連絡。当時は自殺とされたが、 何も見つかっていない。バックの置いてあったところから 海岸に10メートル位足跡があった。発見される前に 雨が降ったがバックも近くにあった本人の靴も濡れて いなかったという。地形や潮の流れから入水自殺で あれば遺体が上がるはず。竹野浜、竹野駅、城崎駅で 目撃者がいなかった。平成15年11月13日、兵庫県警に告発状提出。 特定失踪者・秋田美輪さんの姉「両親が元気なうちに会わせたい」 2014年7月 産経 http://www.sankei.com/west/news/140701/wst1407010067-n2.html 拉致被害者の再調査をめぐる日朝政府間協議が 7月1日から始まる見通しとなった。北朝鮮による拉致被害者や、 拉致の可能性が排除できない県内の特定失踪(しっそう)者の 家族たちは、再調査の行方を見つめている。北朝鮮で元気に 暮らしているのか-。日本に残された家族たちは待ち続けている。 神戸松蔭女子学院大学(神戸市灘区)4回生だった 秋田美輪さん=失踪当時(21)=の姉、吉見美保さん(54)は 「期待はあるが、何度も裏切られている。きちんとした情報を 知りたい」と訴える。 美輪さんは昭和60年12月4日、大学の校門前で友人と 会ったの最後に消息を絶った。翌朝、川西市にあった実家に 県警から電話がかかってきた。100キロ以上も離れた竹野町 (現豊岡市)の弁天浜で、秋田さんの靴とかばんが見つかったという。 父の正一郎さん(82)と母の嶺子さん(80)は現地に 駆けつけた。県警などは入水自殺した恐れがあるとして周辺を 捜索したが、美輪さんは見つからなかった。 当時、結婚して愛知県に住んでいた吉見さんは、初めての 子供を身ごもっていた。そのため、両親は吉見さんに心配させまいと、 妹の行方不明を直ちに伝えなかった。吉見さんが知ったのは翌月だった。 「本当に自殺なのか…」。美輪さんが自殺する理由に 心当たりがなく、家族は戸惑った。なぜなら、美輪さんの大学の ロッカーには、行方不明翌日に出す予定の卒業論文が置かれて いたからだ。 翌月には、吉見さんが出産のため実家に里帰りする予定で、 「私が帰ってくるのを妹は楽しみにしていたはず」と力説する。 両親は毎年、12月4日前後に弁天浜を訪ねた。自宅では、陰膳 (かげぜん)を据えていたこともあったという。 平成9年、横田めぐみさんが北朝鮮に拉致されたとの報道 されたことなどから、両親は美輪さんが拉致されたとの疑いを 持つようになった。両親は救う会に相談し、15年に美輪さんは 特定失踪者として公表され、容疑者不詳で国外移送目的略取容疑で 県警に告発。体調を崩した正一郎さんに代わり、最近は吉見さんが 岐阜県内で署名活動をしている。 正一郎さんは、北朝鮮の全面調査を安倍首相が発表して以来、 たびたび「政府から何か連絡はあったか」と尋ねるという。 吉見さんは「美輪はどういう扱いを受けているのか。ちゃんと した暮らしをしているのだろうか。両親が元気なうちに会わせたい」 と涙ぐんだ。 |